昭和史

昭和という時代を語る上で、いくつかの認識の違いや時代背景から受ける感覚などに、多少の違和感を感じるかもしれないが、世界と戦うことになり、後戻りのできなかった時代をしっかりと感じてほしい。


 まず、昭和という時代の始まりは、昭和元年(大正15年)  1926年12月25日にスタートした。
皇紀でいうと2586年であり、7日間だけの昭和元年であった。 
12月25日 大正天皇、48才にして崩御される。摂政裕仁親王が皇位を継承し。年号は昭和と改元という詔書が公布された。昭は光明、和は平和を表すとされたのだが、その想いとは別に、この時代は始まり、大きな波の中へと突き進んでいくのである。 その日に起きた事件で号外誤報事件というのがある、東京日々新聞ほかの新聞社はこの日に号外を発行し、新元号は光文であると報じたが正式発表前のスクープであったため、不謹慎であるとして時の政府は一転して元号を昭和に変更したのである。世紀の誤報事件となった。
この時期、人々は大正12年9月1日の関東大震災から立ち上がろうとしているが、不景気により失業者があふれていた。この元号が代わったことを機に明治、大正から決別するときが来たことを感じた。しかしながら現実は「昭和」の意味とはまるで逆の方向に推移することとなるのである。
 明治大正の両時代から欧米の列強国と肩を並べることに総てをかけてきた当時の政府はこの新時代の到来に世界進出を計ろうと、大財閥を中心とした、保護貿易の大船団をくみ、アジア諸国はもとより、遠く未開のアフリカや南米にまで進出しようと考えたのである。
 この時代の政府は明治期より続く富国強兵政策を体現させるために必死であったのが伺える。
すると第一次世界大戦が勃発し、そのお陰で、まれに見る好景気を迎え日本経済は大きく急成長を遂げた。しかし大戦が終結して列強国の生産力が回復すると、日本の輸出は減少して早くも戦後恐慌となった。更に昭和2年には、関東大震災の手形の焦げつきが累積し、それをきっかけとする銀行への取りつけ騒動が生じ、昭和金融恐慌となった。若槻礼次郎内閣は鈴木商店の不良債権を抱えた台湾銀行の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、枢密院の反対に会い、総辞職した。あとを受けた田中義一内閣は、高橋是清蔵相の下でモラトリアム(支払い停止令)を発して全国の銀行の一斉休業と日銀からの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。一方、中国では孫文の後を蒋介石が継ぎ、国民政府軍が北伐(中国革命で中国北部の軍閥勢力を平定すること)を開始して、華北に進出した。田中内閣はこのため3回に及ぶ山東出兵をおこない、東京で外交・軍部関係者を集めて東方会議を開き、満蒙の利権を死守することを確認した。これに基づいて政府は満州の実力者張作霖と交渉し、満州の権益の拡大を図ったが、張は応じず、関東軍は張の乗る列車を爆破して暗殺した。関東軍は当初この事件を中国国民政府軍の仕業だと公表したが、実際は関東軍参謀河本大作の仕業であった。このため国内の野党から「満州某重大事件」として追及され、田中は昭和天皇に上奏しようとしたが、天皇から説明を聞きたくないと不快を表明され、田中内閣はこのため総辞職した。世上では首相の名前を下から読んで、「一つもよしことなかった」と揶揄されるほどであった。
 これが昭和初期の国内の動きであるが現代には存在しない制度や考えられない事がいくつかある。
枢密院などはその最たる例である、この枢密院とは天皇が認めた国家のご意見番のようなもので、本来はアドバイザー的な存在としてあるべきものであり、宮内職を取り扱うはずであったがったが、実情は内閣府や軍部への影響も強くまた、帝国の考え全体を左右していたと言っても過言ではない。この枢密院は第二次世界大戦が終わった2年後に廃止されるまでつづいたのである。ちなみに初代の議長は伊藤博文である。
 もう一つ注意すべき点は天皇の存在と権限である。国家の最高権力者は権力と同時に責任も負わされていた。天照大神の皇御子として日本国の象徴というより日本国そのものが天皇でなくてはいけなかった。すなわち言動も行動も、すべて現人神として、帝王学を学び総ては臣下の為にある存在としていたのである。
このような天皇の下であっても昭和という時代は次のステージへと進んでしまうのである。昭和11年の2月26日へと


第2章へとつづく


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